雇用の流動性が高まる中、社員の転職や独立に伴う営業秘密の不正な持ち出しが深刻な経営リスクとなっています。このリスクは、自社の秘密が流出する「流出リスク」にとどまらず、中途採用者が持ち込んだ他社の秘密を、知らずに使用してしまう「不正流入リスク」として、あなたの会社(転職先企業)や既存従業員を刑事罰や巨額の損害賠償にさらす可能性があります。経営者として、この高まる脅威を認識し、いますぐ講じるべき対策について解説します。--------------------------------------------------------------------------------1. 営業秘密侵害の現状と増大する法的責任犯罪件数の増加と主要な漏洩ルート企業の競争力にとって営業秘密の重要性が高まるにつれて、その侵害行為によって競争力が損なわれるおそれも高まっています。全国の警察による営業秘密侵害事件の相談受理件数は2013年から2022年の間に約5倍に、検挙事件数は約6倍に増加しています。この漏洩ルートとして最も多いのが、中途退職者によるものです。元従業員が営業秘密を持ち出す動機は、転職先での使用、または自ら独立開業して使用することのいずれかであるとされています。転職先企業と従業員が問われる「二次的取得者」責任特に注意が必要なのは、秘密を不正に持ち出した一次的取得者(転職者等)だけでなく、その情報を使用または開示した二次的取得者(転職先企業や既存の従業員)も、民事責任および刑事責任を問われる可能性がある点です。営業秘密侵害罪において、侵害企業が刑事罰を受けるだけでなく、侵害企業の従業員までもが刑事罰を受けた事例が存在しており、特許権侵害とは異なる大きな違いがあります。例えば、ある回転寿司チェーンの元社長による営業秘密持ち出し事件では、情報を受け取った転職先企業の従業員が懲役2年6月(執行猶予4年)及び罰金100万円、企業自身も両罰規定により罰金3,000万円の有罪判決を受け、確定しています。また、別のリフォーム事業情報事件では、転職先企業が、元従業員から開示された秘密情報について、不正競争防止法違反が認められ、1,815万円の損害賠償と使用差止めが命じられています。裁判所は、競合関係にある転職先企業は、その情報を見た時点で、元従業員が秘密保持義務に違反して開示していることを容易に理解できたと判断しています。2. 秘密管理性の確保:自社秘密を守るための前提自社の情報が法的に「営業秘密」として保護されるためには、単に有用で非公知であるだけでなく、「秘密として管理されている」ことが必須です。特に、営業担当者が個人的な信頼関係によって自力で形成・蓄積してきた顧客情報など、従業員個人から切り離すことが難しい情報については、秘密管理性を肯定するために強力な秘密管理措置が要求される場合があります。もし、社内で情報管理規程があっても、「社外持出しの原則禁止」などのルールが実際には機能しておらず、従業員が自由に情報を持ち出していたような実態があれば、裁判所によって秘密管理性が否定され、結果的に自社の情報が保護されない事態となり得ます。3. 経営者がいますぐ実行すべき不正流入対策他社の営業秘密が自社に不正流入し、既存の従業員が刑事罰を受けるという最悪の事態を回避するためには、経営陣主導の対策が不可欠です。(1) 転職者に対する厳格な注意喚起と誓約書の取得中途採用者に対し、入社時に前職企業の営業秘密を自社に持ち込まない旨を明記した誓約書への署名を求めるべきです。この誓約書は、持ち込みを完全に防ぐことはできなくとも(誓約書を無視する事例もある)、万が一持ち出しが発覚した際に、会社として秘密の開示を要求していないことを証明するための材料となり得ます。(2) 全社員向けの「他社秘密」に関する研修の実施自社の営業秘密の流出防止研修を行う企業は多くても、他社営業秘密の不正使用に対する研修を行っている企業は未だ少ないのが現状です。全従業員に対し、「自社の秘密を持ち出すことは違法だが、他社の営業秘密を許可なく使用することも違法である」という認識を共有させる研修は必須です。採用面接時や入社後に、転職者に対して前職企業の営業秘密の開示を要求する行為も違法であり、営業秘密侵害罪の共犯となり得ることを認識させるべきです。(3) 内部告発・相談窓口(社内相談制度)の設置転職者が上司となり、部下である既存従業員に対し、前職の営業秘密の不正使用を指示するケースは、過去の事例でも見られます。部下は、上司の指示と違法行為の板挟みとなり、非常に困惑します。このような事態に備え、転職者から他社営業秘密の開示や使用を促された場合に相談できる社内相談窓口を、営業秘密に詳しい法務部や知的財産部が担う形で設けるべきです。この制度は、既存従業員が刑事罰を受けるという最悪の事態を回避するためのセーフティネットとなります。(4) 知的財産部門による監視と連携特に技術情報に関連する場合、転職者が入社後、わずかな期間のうちに優れた発明や技術を創出・報告した場合(例:塗料配合情報事件)、それが前職企業の営業秘密に基づいている可能性を疑い、発明に至った経緯を注意深く確認する必要があります。知的財産部門が、発明を一括管理し、自社で創作されたものではないと判断した場合には、その自社実施をしない決断を下すことが、不正流入を未然に防止する上で重要です。--------------------------------------------------------------------------------まとめ:公正な競争とリスク管理のために企業の成長とイノベーションを追求する上で、有能な人材を中途採用することは不可欠です。しかし、その人材が持つ知識、技能、経験(これらは営業秘密ではない場合が多い) を活用することと、前職の具体的な営業秘密(特定された情報) を不正に利用することの間には、明確な法的境界線が存在します。経営者は、自社の営業秘密を「秘密管理性」によって守り抜く自助努力を行うとともに、転職者がもたらす情報に対して適切な判断を行い、既存の従業員が知らずに犯罪に加担するリスクを根絶するための体制を構築しなければなりません。これらの対策は、企業間の公正な競争を確保し、国民経済の健全な発展に寄与する(不正競争防止法1条)だけでなく、何よりも自社の未来と従業員の人生を守るための、不可欠な経営判断です。