商標といえば、一般的には「文字」や「図形」を思い浮かべる方が多いと思います。しかし近年では、音、色彩、ホログラム、動きなど、いわゆる「新しいタイプの商標(Non-traditional trademarks)」の保護が世界的に進んでいます。その中でも、実務上最もハードルが高いとされるのが「匂い(Scent/Smell)」の商標です。そこで、匂いの商標に関する各国の現状と、つい先日インドで出された「科学的アプローチによる匂いの可視化」を認める画期的な決定についてご紹介します。これは、今後の商標実務に一石を投じる非常に興味深い事例です。1. 世界における「匂いの商標」の現在地まず、世界各国で「匂い」がどのように扱われているかを見てみましょう。結論から言うと、制度上は認めていても、登録へのハードルは極めて高いのが現状です。日本 日本では2015年に音や色彩の商標が導入されましたが、「匂い」についてはまだ導入が見送られています。現時点では登録することができません。米国 比較的柔軟です。「製品の機能(芳香剤など)」でなければ、詳細な「記述(Description)」によって登録が可能です。ただし、消費者がその香りをブランドとして認識しているかという「識別性」の証明が厳しく求められます。欧州(EU)・英国 ここが最も厳しい地域です。かつては登録例もありましたが、現在は「Sieckmann基準」と呼ばれる判例法理により、「商標は明確かつ客観的に特定できなければならない」とされています。匂いは時間の経過で変化したり、人によって感じ方が違うため、現在の技術ではこの基準を満たす表示(グラフィック表示)ができないとして、実質的に登録が認められていません。つまり、「目に見えない匂いを、どうやって願書に『図形(グラフィック)』として特定するのか?」というのが、世界共通の難問でした。2. インドでのブレイクスルー:住友ゴム工業の事例そんな中、2025年11月、インド商標登録局(TMR)から驚くべき決定が出されました。 日本の住友ゴム工業株式会社が出願していた、タイヤに関する「匂いの商標」が受理(Accept)されたのです。出願商標: "FLORAL FRAGRANCE / SMELL REMINISCENT OF ROSES AS APPLIED TO TYRES"(タイヤに適用されたバラを思わせるフローラルな香り)指定商品: 第12類(車両用タイヤ)当初、インドの審査官は「グラフィック表示の要件を満たさない」として拒絶していました。インド商標法でも、商標は「グラフィックに表現できること」が必須条件だからです。しかし、ここで画期的な解決策が提示されました。科学の力で「匂い」を「図形」にする出願人側は、インドの理系トップ大学の一つであるインド情報技術大学アラハバード校(IIIT Allahabad)と協力し、バラの香りを科学的に分析しました。具体的には、香りを以下の「7つの基本臭」に分解し、それぞれの強度を数値化して「7次元空間ベクトル」としてレーダーチャート(多角形グラフ)化したのです。Floral(フローラル)Fruity(フルーティー)Woody(ウッディ)Nutty(ナッツ)Pungent(刺激臭)Sweet(甘味)Minty(ミント)インド商標局の長官(Controller)は、このグラフについて「科学的な気質をもって詳細に定義されており、保護の範囲を明確に特定できる」と評価しました。 つまり、「科学的なグラフであれば、匂いのグラフィック表示として認める」という判断を下したのです。3. インドにおける登録ハードルの低下この決定が意味することは重大です。これまで「言葉による説明」だけでは客観性が足りず、「化学式」では匂いそのものを表していないとして拒絶されてきた匂い商標ですが、インドにおいては「大学や研究機関による科学的分析データ(ベクトルグラフ)」を提出するという明確な「勝ち筋」が見えました。欧州が「技術的に不可能」として扉を閉ざしている間に、インドは「科学技術による可視化」というアプローチで柔軟に門戸を開いたと言えます。今回の決定により、インドにおける匂い商標の登録ハードルは、適切な準備(科学的データの用意)さえ行えば、以前よりも格段に下がった(あるいは明確になった)と考えられます。まとめ世界的に「匂いの商標」は登録が難しい(日本は未導入)。最大の壁は「目に見えない匂いをどう特定するか(グラフィック表示)」。インドでは「7次元ベクトルグラフ」による科学的表示が認められた。これにより、インドでは客観的なデータがあれば匂い商標登録の道が開かれた。日本企業が海外展開する際、ブランド戦略の一環として「香り」を活用するケースも増えています。インドのような巨大市場で、他社と差別化するために「匂いの権利化」を検討する価値は十分にあるでしょう。当事務所では、こうした各国の最新の知財実務に基づいた出願戦略のご提案を行っております。海外商標でお困りの際は、ぜひお気軽にご相談ください。